毒を以て、土木を吐く

こんにちは、公務員(土木技術職)のダスギフトです。 このブログ「毒を以て、土木を吐く」では、仕事で感じるモヤモヤや心の毒を、思考の整理もかねて吐き出しています。 「前例にとらわれず業務を!」なんて言われても、滑稽に聞こえることもしばしば。 変革なんて望んでません。もしそうなら、議員でも目指してます(笑)。 現場のリアル、ここに残します。

#20 腐った職場と私の境界線

【ここか先、立入禁止】〜私が決めますね、その線は〜

第20回:腐った職場と私の境界線

 

 

公務員は成果主義じゃない。

だから、どれだけ頑張っても、サボっても、評価に大差はつかない。

じゃあ、何のために働くのか。

「住民のため」と言えば聞こえはいいが、そんな大義を四六時中意識できるわけもない。

結局のところ、上司や同僚が困らないように、あるいは受注者に過度な負担を与えないように――つまり、目の前の人のために動いているのが現実だ。

 

けれどこの世界には、便利な呪文がある。

「自分なりに頑張れば許される」

「受け取り方は人それぞれ」

この二つを唱えれば、どんな責任も霧のように消える。

基準を曖昧にし、判断を放棄し、結果の重さを個人の感情にすり替える。

そうして“頑張り方の多様性”という名のもとに、ただの怠慢が正義に変わる。

 

リスケの責任を取らず、仕事の放棄を「一旦離れたほうがいい」で正当化し、

その分の負担を「分担が難しいから一人で」と片づける。

こうして現場には、沈黙を武器にされた不平等だけが残る。

 

「係長は管理職じゃない」と言えば、聞こえは謙遜だが、実際は免罪符だ。

上からの命令を“指示”として受け、下からの苦情を“共感”で受け流す。

その曖昧さこそが、現場を最も疲弊させている。

結局、埋まらない仕事は「やれそうな人」に押しつけられ、

その判断の基準は“文句を言わなそうな人”。

責任の所在はぼやけ、声を上げる人間ほど煙たがられる。

 

問題を問題としないために、全力で責任の曖昧化を進める。

「誰が悪いわけでもない」と言いながら、誰も責任を取らない。

そんな世界で、「チームで支え合う」なんて言葉は、もう冗談にしか聞こえない。

 

腐敗は事件じゃない。習慣として進行する。

自立できない職員たち――葛(くず)のように絡みつき、

他人の誠実さを支えにして生き延びる。

私はもう、その根を見て見ぬふりはしない。

雑草は抜く側の人間でありたい。笑

 

 

 

この線の地下の話(せんちか話)

 

怒りより、虚しさが勝つ。

「住民のため」と唱えながら、同僚の理不尽で削られていく現場を見続けて、

誇りを保てるほど私は聖人でもない。

それでも書く。

腐臭に慣れたくない自分を、忘れないために。

 

今日はこのせんで。

 

 

 

#19 1しか賭けない、その境界線

【ここから先、立入禁止】

〜私が決めますね、その線は〜

第19回:1しか賭けない、その境界線

 

 

「自信の上には奢りがあり、謙遜の下には卑屈がある」

 

漫画「ダイヤのA」の片岡監督の言葉だ。

 

自信を持とうとすれば奢りが見え隠れして、

謙遜しようとすれば卑屈になっていく。

その中間に立ち続けるのは難しい。

そして、立ち続けることに価値があると思っている人間ほど、地味にしんどい。

 

 

 

私は、他人のbetに振り回されるのが嫌だ。

奢ってる人間は、自分だけを信じて他人のbetを見下す。

卑屈な人間は、自分すら信じられず他人のbetに怯える。

どちらも関わってくれる人の価値をないがしろにする。

 

私はそこに立ちたくない。

だから、自分にルールを課している。

 

私は、1しか賭けない。でも、1は賭ける。

それが、自信と謙遜のちょうど真ん中に立つための、私の賭け方。

 

 

 

 

 

 

 

 

この線の地下の話(せんちか話)

 

私は、いつだって1betしかしない。

 

それが、卑屈にならないギリギリの線だと知ってるから。

自分を捨てず、かといって他人に期待しすぎない。

その絶妙な温度管理が、私にとっての誠実だ。

 

 

 

たとえ相手が私に100betしてきても、私は1betして、チェックで返す。

コールもしないし、レイズもしない。

もちろんフォールドもしない。

 

私にできるのは、それだけだ。

 

 

 

それ以上のbetは、相手を信じられないんじゃない。

私が壊れたくないからだ。

“壊れる覚悟”を期待だとか愛だとか呼ぶのなら、それはただの無謀だ。

 

 

「もっと賭けてもいいのに」って言われることもある。

でも、その“もっと”がどれだけ無責任な言葉かわかってるのは私だけでいい。

 

 

 

 

私のbetは、最初から1で決まってる。

勝てそうだから吊り上げたり、負けそうだから降りたりしない。

私は、結果しか見ない。

 

 

勝った負けたの前に、自分が賭けた事実だけを信じたい。

たった1だけど、私はそこにちゃんと意味を込めてる。

 

 

 

これは、私が自分にだけ許した防衛線だ。

誰に理解されなくてもいい。

誤解されても、卑屈だと言われても構わない。

私は、これ以上傷つかないために、1しか賭けない。

 

 

 

相手の100betに目を奪われない。

期待しない。引き返さない。コールもしない。

でも、1だけは、確かに賭ける。

 

それが、私なりのリスペクトの形。

 

 

今日はこのせんで

 

 

#境界線シリーズ

 

#1betの覚悟

 

#コールはしない

 

#過大評価にも過小評価にも乗らない

 

#価値は自分で決める

 

#毒とリスペクト

 

#18 人であるための必要経費

【ここから先、立入禁止】
〜私が決めますね、その線は〜
第18回:人であるための必要経費

 


言葉って、選ぶよね。


相手の性格、置かれた状況、その時の空気──いろんな要素を読み取って、
「まぁこの辺の言葉が欲しいんでしょ」って見当をつける。

もちろん、全部が全部ピッタリ当てるわけじゃない。
少なくとも“誤爆しても大丈夫な言葉”くらいは用意しておく。

特に文章になると、より濃く出る。
この言葉を選んでくれてありがとう、って思われるくらいには、ちゃんと計算してる。

……でも、そこに本音があるかどうかは別の話だよ?


響いた? 気持ちよくなれて良かったね。
私の本心かどうかは知らんけど(笑)

 

そりゃあ「本音で話してよ」って言われたら、たぶん言うよ。
でもね──
“本音で話して”って要求できる人間が、どれだけいる?

この言葉が嘘かもしれない、と気づける人じゃないと、その要求は成立しないのよ。

でも安心して。
そんなに分かりやすい嘘はついてないから(笑)

 

そんなこと言えば、素直で優しい人たちはこんな言葉を言ってくるだろう


私は本音で話してる。
だから、本音で話してほしいとも思ってる。

 

ただ──
その本音がどの濃度かは見当つかないから、
こっちも濃度を調整させてもらう。

それだけ、本音って難しいものだと思ってる。

 


言葉は

ラベルじゃない。
善意でも優しさでもない。
ましてや救いなんかじゃない。

社会と繋がるための最低限の“接続料”。
それが、私にとっての言葉。
それが、必要経費。

 

 


この線の地下の話(せんちか話)

 

届くかもしれない言葉だけを使う


私が大事にしてるのは、本音があるかどうかじゃない。
届くかもしれない言葉かどうか。

相手にとって“良い反応”を引き出せる言葉だけを選ぶ。
ときにそれは優しさに見えるし、
ときに遠回しな本音に見えるかもしれない。

でも私は「届いてしまうかもしれない言葉」しか使ってない。
届かせるために言葉を選んでるだけ。

届きにくさは折り紙付きだけど

 

 


優しさというラベルは他人が貼る


少し言葉を選んだだけで、優しいねって言われる。
でも、私は「優しくしよう」と思って言葉を選んでない。

ただ、

不必要に

面倒ごとを増やしたくないだけ。
関係を壊したくないだけ。

 

優しさなんて他人が勝手に貼るラベル。
中身が優しさかどうかなんて、私は保証してない。

 

 


言葉を選ぶってことは──


好きそうな言葉を見つけようとしてるってことは、
言われたら嫌な言葉も同時に探してるってこと。
むしろ、こっちのほうが得意まであるんで。

そのくらい、言葉は選んでる。
だから、たとえそれが打算だとしても、
それが“人間として最低限の誠実さ”だと思ってる。

 

 

私が優しいなんて思わないでいい。
私が救いたいと思ってるなんて、期待しないでほしい。

私は人であるために、必要経費を払ってるだけ。
本音の濃度は、相手次第で調整してる。
届いてほしい言葉だけを選んでる。

そしてそのすべては──
ただ、接続を切らないためだけに存在してる。

 

今日はこのせんで

 

 

 


#必要経費シリーズ
#人であるために
#言葉と本音のあいだ
#社会接続の維持費
#本音の濃度調整
#優しさのラベルは貼らせてるだけ

#17効率と非効率の選択、その境界線

【ここから先、立入禁止】〜私が決めますね、その線は〜

第17回:効率と非効率の選択、その境界線

 

 

効率的にやれば、誰でも同じ成果にたどり着ける。

だから強い意志もないのに非効率ぶるのは、ただの時間と体力の無駄遣い。

組織にとっても本人にとっても、害悪でしかない。

けれど、強い意志があるなら非効率を選んでもいい。そこにしか生まれない価値があるから。

 

効率が何よりだ!と豪語する天才の方々へ。

皆さんの経験則や経験値、本当にすべて効率的に積み上げてきたんでしょうか?

無駄に怒られたり、気づかなかったミスでやり直ししたり、ひたすらインプットとアウトプットを繰り返したりしてこなかったんですか?

どう見ても全部、非効率の塊ですよね。

 

人から怒られないように最初から完璧に立ち回り、ケアレスミス生涯ゼロ、手戻りなし。

一度見たものは即座に記憶に定着する。

そんな瞬間記憶能力をお持ちなら、ぜひ拝ませていただきたいものです。

 

効率化を否定するつもりはない。

ただ、それだけでうまくやれる人間なんてそうはいない。

自分の土台には、数え切れないほどの非効率が積み重なっているはず。

その事実を、いつの間にか忘れているだけ。

 

 

 

 

 

この線の地下の話(せんちか話)

 

 

非効率は「引き出しを開ける行為」に似ている。

自分の意志で開ければ「開けた」という事実だけが残る。中身が空でも、そこにネガティブな感情はつかない。

だが、我慢してやらされた引き出しは、結局「二度と開けたくない」という嫌悪感だけを残す。学びはゼロ。

 

知らない分野に挑むなら、まずは手当たり次第に開けてみればいい。理解は二の次。「知らない」を「知った」に変える。

それだけで次のステップは軽くなる。

経験を積んだ今の自分にも、まだ開けていない引き出しは残っている。非効率に挑む場面は消えない。そのとき大事なのは成果ではなく、自分の意志で「開けた」という事実を刻むこと。

 

効率と非効率の境界線は、意志にある。効率は意志が弱いときの逃げ道。非効率は意志が強いときにだけ許される選択。だが非効率を選ぶなら、その中にどれだけ効率を仕込めるかを問われる。

 

基本受け身な私でも、自分の意志で非効率を選ぶことはある。だからこそ、選んだ以上は無駄な後悔はしない。意志を偽れば、自分で自分を裏切るだけ。

 

今日はこのせんで。

 

 

#16 子どもは、必要経費。でも所有物ではない。

【ここから先、立入禁止】
〜私が決めますね、その線は〜
第16回:子どもは、必要経費。でも、所有物ではない。

 

SNSで書いたらたぶん炎上するやつです。

あくまで私個人の思想なので、「こんな人もいるんだなぁ」くらいで読んでください。

 

読解力のない方、文脈を読み取る気がない方はブラウザバック推奨です。

 

 

 

 

 


親になることを、私は選んだ


私は、自分の意思で子どもを持つことを選んだ。
それは“覚悟”とか“夢”とか、綺麗な話じゃない。

もっと現実的で、生活に根差した話。
人生を生きていくうえで、「必要経費」として払うと決めたもの。

金も、時間も、自由も、感情も削られる。
でも、私はそれを払ってでも子どもと過ごす生活を選んだ。

だから後悔はしていないし、
それを愛だとか自己実現だとかに美化するつもりもない。

これは、私が払うと決めた“経費”。
そしてそのコストは、私が自分の意思で選んだもの。

 

 


この線の地下の話(せんちか話)

 


改めて定義の話をしますね。

「必要経費」って言葉には、2種類あると思ってる。

 

一つは、払わなきゃ生きていけないタイプの経費。(仕事とか)
仕方なく時間や自由を奪われる、逃れられない損耗のこと。

 

もう一つは、自分の意思で、価値を感じて差し出す経費。(趣味とか)
やりたくてやってる。だけど、ちゃんと代償もある。

私が子どもに使ってる“時間と自由”は、後者。
自分で差し出すと決めた、私にとっての“必要経費”。

同じ言葉で呼ばれていても、
そこにある重みも、覚悟も、まったく別物。


だけどその“経費”は、私が払うものであって、
子どもに回収を求めるようなもんじゃない。

「あなたのためにやってるのよ」
「あなたの将来のために」
そんなふうに親のエゴを“善意”で包んで押しつける姿を見るたびに、虫酸が走る。

 

ちょっと聞いてみてほしい。


あなたが子どもだったとき、親に“あなたのため”って言われて、

 

ちゃんと納得してた?

その時素晴らしい親だって感じた?
本当に感謝しかなかった?
もしそうじゃないなら、なぜあなたはその理想の親を、今できていないの?

 

 

私はそうなりたくない。
だから正直に言う。

これは、私が選んだことでやっている。
どう受け取るかは、子どもの自由。

「あなたのために」と言われたとき、
子どもに**“断る自由”が残ってると思う?**

ないよね。
それってもう選択肢じゃなくて、命令だよ。

そんなものを“愛”と呼ぶなよって思う。

 


私は、自分がしたいから子どもに色んなことをしている。
でもそれを、子どもがどう受け取るかは別の話。

それでいい。
親の自己満で完結することほど、子どもにとって迷惑なものはない。

だから、私は子どもの写真をネットにも上げないし、待ち受けにも使わない。
それが“愛がない”と思われてもいい。

これは私の思想。

所有物じゃない。
私が選んだ必要経費だけど、私のものではない。

 

 


親である自覚はある。
でも、“親でいられるかどうか”は、子どもが決めること。

 

血が繋がっていようがいまいが、
子どもが“親だ”と思ってくれたなら、それは立派な親だと思う。
逆に、血が繋がってても、
子どもから「あなたは親じゃない」と思われたら、もう親じゃない。

それは前に書いた「優しさ」と同じ構造。
自分がどう思ってるかじゃなくて、相手がどう受け取ったかでしか成立しない。

親も同じ。
「私は親です」なんて、名乗ることに意味はない。
子どもが“親だ”と感じた瞬間だけ、初めてそれが成立する。

 


私は、ただ自分が選んだ道を歩いているだけ。
その道に子どもがいることも、私が選んだことの一つ。

それを子どもがどう受け取るかは、子どもの自由だ。

 

人と距離を取りたがる私が、
自分の中で最も価値のある“時間と自由”を投じると選んだ相手がいるとしたら。

 

それがどういう意味を持つのか。

 

それだけの価値が私にはあるってこと。


でも、相手に何も求めない。そんなもの、無駄だから。

 

今日はこのせんで

 

 

#子どもという必要経費
#親のエゴを押し付けない
#私は私の責任でやってる
#親を名乗る条件
#思想としての育児
#第16回

#15 含みの中に残るもの、その境界線 

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第15回:含みの中に残るもの、その境界線


言葉には、いつだって“余白”がある。


「今は」「まぁ」「とりあえず」──たったこれだけで、人は勝手に裏を読み取るし、言った本人はその余白を都合よく使える。便利だけど、ずるい。

 

有名なのは「京都のぶぶ漬け」。世間では“帰れ”の婉曲表現とされがちだけど、私はそうは思わない。
あれは「まだ続けますか?」「ここでお開きにしませんか?」という確認だ。ぶぶ漬けを食べるくらい話すことがあるのか、ぶぶ漬けを出すくらいの時間や意味がここにあるのか──それをやんわり問いかける。


角を立てずに線を引き、言った言わないの争いを避けるための術。それが私の解釈。

日常の中にも“含み”は転がっている。たとえば「そうめんでいいよ」。


優しさのように聞こえるけれど、結局は面倒くさいことには変わりない。配慮している“ふう”だからこそ、地雷にもなる。


私自身、「〇〇でいいよ」と口にするときは、他に本音がある証拠だ。ただ、相手がそれを望むなら合わせるよという含みを込めている。

 

同じように「〇〇がいいよ」も実は本音ではない。消去法で残った選択肢を口にしただけ。


じゃあ本音は?となれば、答えは「〇〇したい」だ。


自分を主語にしてシンプルに言うときだけ、それは含みではなく意思になる。

 

含みの言葉には、それぞれ中に“残るもの”がある。


・「〇〇でいいよ」=譲歩や配慮のポーズ
・「〇〇がいいよ」=便宜的な折り合い
・「〇〇したい」=揺るぎない意思

 

含みは曖昧さじゃなく、選別だ。中に何を残すかで、意味が変わる。



この線の地下の話(せんちか話)


厄介なのは、含みを悪用するタイプがいることだ。
都合のいいときは「そんな意味じゃなかった」と風見鶏のように逃げる。裏を持たせた本人が責任を取らないなら、それはただの言い訳でしかない。

一方で私自身も、含みを使うことがある。相手に期待して、逃げて、混乱させてしまうこともある。やっていることだけ見れば大差はないかもしれない。
でも違うのは、私は含みにも責任と意味を残しているということだ。わかっていてやっているし、本音あっての含みだ。

無自覚な含みは「本音なしの含み」。中に残るのは、混乱や疑念。
自覚的な含みは「本音あっての含み」。中に残るのは、芯や責任。
どちらが正しいかなんて知らない。
でも「本音は?」と正面から問うてくれる人がいたら、敬意をもって答える心づもりでいる。

含みは、曖昧さではなく選別だ。
その中に何を残すのか──本音か、それ以外か。
そこに線を引けるかどうかで、言葉はただの言い訳にも、責任ある選択にもなる。

 

要はね、「わかってくれる人にはわかる」って話。
でも、わかる人が「本音は?」って聞いてくれたら、ちゃんと答える用意はあるってだけ。
面倒くさいかもしれないけど、それが礼儀ってものよ。

 


今日はこのせんで。



#14 必要経費という考え方

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第14回:必要経費という考え方

 

◯この世をなんとかやり過ごすために、払ってるもの


必要経費」って言葉を聞くと、大抵はお金の話になる。
仕事で使った道具代、通勤費、誰かと出かけたときの飲食代。
なにかの“リターン”を得るために払うもの。

でも、私が言いたい「必要経費」は、ちょっと違う。
というか、そもそもリターンなんか期待してない。

 


例えば、早朝の私の趣味活動。
「好きなんですね?すごいですね」ってよく言われる。
違うんだよ。
その時間しか空いてないから、そこに押し込んでるだけ。
やらないと、体も頭も淀む。だからやる。
得るためじゃなくて、“崩れないために払ってる”行動。


人間であるための必要経費
この世にとどまるための必要経費
本当は、そんなの払いたくない。
でも、払わなきゃ壊れるから、仕方なく払ってる。

 

 

 


この線の地下の話(せんちか話)

 

2つの必要経費

必要経費には、2つあると私は思ってる。

 

①自分を保つための「維持費」

 これは、人間としてギリギリ立ってるための自己メンテナンス。

 

・趣味活動
・書くこと
・一人になること
・距離を取ること
・ちゃんと食べること

 

誰に頼まれてもない。
でも、やらないと私は崩れる。
自分のために、自分で払う「自発的な必要経費」。 

 

②社会で生きていくための「通行料」

これは、組織や人間関係に適応するためのコスト。

黙る
飲み込む
濁す
無理に笑う

誰かのために払ってるようで、実は自分を守るために選んでる消耗。
本音では払いたくないけど、そうしないと波風が立つから。
強制的に発生する、逃げ道のない必要経費。

要は世間の"空気"


この2つを、私はごっちゃにしたくない。

どちらも「必要」ではある。
でも、意味も、重みも、ぜんぜん違う。


私は、自分の維持費を軽く見ない
世の中には、自分の維持費を軽く見る人が多すぎる。
何もしてなくても平気そうに見える人。
「まぁそのくらい我慢すればいいでしょ」と言える人。

 

でも、私はそうじゃない。
維持するのに、ちゃんとコストがかかる人間だ。

それを無視して「気楽にやれば?」「やめればいいじゃん」って言われると、
払ってきた経費ごと、自分を否定される感覚になる。

 

だから私は、はっきり線を引く。

私は、自分の維持費を軽く見ない。
払ったものに対しては、ちゃんと“何に、どれだけ”払ったのかを明細化しておきたい。
曖昧な「なんとなく」で処理したくないし、
そこをごまかすと、あとで自分が一番迷子になるのを知ってるから。

必要経費とは、プラスにするための投資ではなく、
プラマイゼロをキープするための支出である。

私は、この世にリターンなんか求めてない。
でも、この世にいなきゃいけない。
だから、今日も必要経費を払う。
誰にも見えないまま、静かに。

 

——私の余力なんて限られているの。

皆さまみたいに大きい器なんてないので。
だからこそ、1円たりとも無駄にしたくない。

 

今日はこのせんで

 


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#なんとなくに殺される前に